<大航海時代のマネー~ネーデルランドの発展>
国富である金銀、貨幣の歴史から見ていくと、この大航海時代の黄金の国スペインが何故衰退したのか、そして新大陸からの莫大な金銀がどこに消えていったのか、いまいちすっきりしません。
ここでマネーの歴史として、語らなければならないのは、
貨幣ではなく「債券」
十字軍遠征時代の12~13世紀、前述の通り西アジアとの交流でイタリアは貿易が盛んに行われていました。その中でもヴェネツィアとジェノヴァは商業地域として栄えました。その後ヴェネツィアとジェノバは戦争に突入しますが、それら戦争の資金調達の手段として使われた手法が国債!1262年にヴェネツィアで世界初の国債が発行されています。※この仕組みを考案し運用していったのがユダヤ人です
その後14-15世紀にイタリアで芸術家たちが躍動したのには、これらの資本家たちが援助したことで自由に芸術活動を行えたというマネーの背景もありました。そしてルネサンスの後15世紀に入って大航海時代になるとジェノバはポルトガル・スペインの航海に投資をしていきます。大航海時代にもたらされた冨は前述の通りですが、莫大な富をもたらしたことで、ヨーロッパ中の投資マネーがジェノバに集まることとなりました。その結果、ジェノバ債は飛ぶように売れ、金利が3~4%へ押し下げていきました。(イタリア他諸都市が5%、オランダ10%、フランスが15%)この頃は、新大陸からの銀の流入で大幅なインフレに見舞われていたヨーロッパ諸国にあって、これだけ低金利であったという事は、それだけジェノバに投資マネーが集まっていたという事を物語っています。ジェノバはこの集まったマネーをスペイン・ポルトガル王室に高金利で莫大に貸し付けを行いました。前述のスペインが莫大な金銀を新大陸から得ていたのに、何度もデフォルトを繰り返していたのには、この高金利なジェノバへの借金返済でした。
その後、1580年ポルトガルはスペインに吸収(併合)され、ポルトガルの負債も引き継ぎます。
この16世紀、ネーデルランドのアントワープという場所が経済特区として開かれていました。よって、そこには様々な物資、資金が集まり手形が盛んに発行され、金融ビジネスが発展していきます。
そこでジェノバ債が一気に9%まで高騰します。何が起きたか!?
1555年、カール5世がドイツ諸侯との戦いに負けた のです。※シュマルカルデン戦争
カール5世を支援していたジェノバの融資は焦げ付き、金利の高騰を招いたのです。
ジェノバに集まっていた資金は一気にアントワープに流出していきました。
集まった資金のアントワープですが、フェリペ2世とプロテスタントの激しい戦いによって、商工業者はアムステルダムに移動(避難)します。そして1581年にオランダがスペインから独立!
こうして、金融の中心地がネーデルランド、アムステルダムに移った という事になります。
その後オランダは一時代を築いていきます。
この時代、アムステルダムが世界の貿易の中心地となり、マネーの中心地となります。
それは何故か?
- 重商主義による貴金属の輸出入禁止下における唯一の自由取引国
- ヨーロッパの仲買人としての役割
- アムステルダム銀行による金融発展
- オランダ東インド会社による資金流入
1・・・重商主義とは、金銀などの貨幣や貴金属の諸外国との取引を禁止、規制することです。何故そのような事を各国は取ったのでしょうか?
ここまで読んできてお分かりかと思いますが、国家の国富というものは、金銀の確保が重要です。しかし、自由貿易や戦争などで貿易赤字、財政赤字になるとすぐに金銀が枯渇してしまいます。そして、産業を活性化したり、手っ取り早く金銀を新大陸から発掘したり、強奪したり・・・様々な策を講じますが、この時代は絶対的に世界の経済スピードと金銀の絶対量が不足していたという説もありますが、各国それらの金銀の確保に必死であったという事です。そして取られていた政策がこの重商主義でした。=今でいう「自国ファースト」ですね!
その中にあって、オランダはヨーロッパでは唯一規制をしていませんでした。前述のようにジェノバからネーデルランドに資金が流入してくることになります。
2・・・オランダはヨーロッパの中でまさに仲買人としての立場になっていきます。それまでは農業などの産業で輸出もしていましたが、それよりも世界中から物資を集め、それらを再び世界中に供給するという役割を担います。バルト海沿岸から穀物、ノルウェーから木材、ポルトガルから塩、北海海からはニシン等々。そして商船で世界中を駆け回った。1602年にはオランダ東インド会社が設立され、東インドのみならず、中国、日本・・・と。
当時日本は徳川家康の時代、オランダからもたらされる武器と共に、16世紀から日本で影響が出始めたキリスト教(フランシスコ・ザビエルが1549年に宣教)を弾圧しますが、その後日本は鎖国の中にあっても、唯一中国とオランダと貿易を継続していく事になります。こうしてオランダは、大航海時代の覇権を握っていたスペイン・ポルトガルから世界の海を支配していくようになります。
また、英仏100年戦争時代の15世紀のイギリスで記述した通り、毛織物製品が盛んであったイギリスの製品をヨーロッパ他各国に販売していたのはオランダでした。実はこのイギリスとオランダの利害関係が遠くアジアでの事件に影響を及ぼします。当時オランダ、イギリスはアジアへの香辛料貿易として航海を続けていました。そこで覇権争いがアジア各国で頻発し、1623年モルッカ諸島のアンボイナ島にあるイギリス館をオランダが襲い、全員殺害するというアンボイナ事件が勃発します。イギリスはこの事件でモルッカ諸島を諦め、インドに専念していくのですが、その後のイギリスの対応です。
オランダには強く抗議・そして報復もせず・・・でした。
経済の利害関係があるからこそ・・・という現在の新聞を読んでいるような外交の一面が見える歴史の1ページだと思います。しかし、そこから英蘭関係は悪化していく事になります。
3・・・世界各国から様々な物がアムステルダムで取引される中、アムステルダム銀行は、オランダ商人の預金銀行として、そして重商主義の中にあってヨーロッパ全ての商人、資本家の銀行として(安全性)機能を果たすこととなります。また、貸付による利子、信用業務、銀行券も17世紀末には発行されていくようになり金融国家として変化していくようになります。1636年頃に起きたチューリップバブルはまさにそのオランダ金融国家としての象徴的な例と言えます。
→チューリップバブルについて映画のPRビデオをご参考に
https://www.youtube.com/watch?v=PKf5E75WKo4
ここで学ぶこと!
✓投資ではなく投機になるとバブルが起きる
投資とは、物やサービスに資本を投下してその事業の収益の一部の対価を得ること
投機は、偶然に得られるもので、根拠の乏しい投資のこと
✓一般人が手を出したら危ない
✓急激に上がるものは危ない
→ビットコインチャート&チューリップバブルグラフを参考
4・・・前述の通り、世界初の株式会社としてオランダ東インド会社とイギリス東インド会社がイギリス、オランダで設立しますが、大航海時代の資金集めとして象徴的な比較対象となりました。
表の通り、イギリスは一航海毎に株券を発行して資金を集め、船が帰国した積み荷の利益によって分配するシステムでした。この為、一回一回が船が無事に戻ってくるかどうか、天のみぞ知る・・・的なまさに博打に近い形の為、ハイリスクハイリターンでした。
逆にオランダは約200年間の配当平均が18%でした。今で考えれば素晴らしいリターンですが、他の国債との比較をすると妥当だっと言える、ローリスクローリターン型でした。
この資金集め、勝者は・・・オランダでした。
資本家の求める者は、いつの時代も安定的な収益。ハイリスク型は求められないという典型的な例だと思います。
しかし、オランダはその後イギリスに覇権を移すことになります。
ここまで金融国家として栄えたオランダが何故!?
1652年から約20年、3度にわたるイングランドとの戦争によって、3度共に敗戦を期します。
商業、金融として栄えた一方、軍事に穴があった!という事でしょう。
この時、現在の中国のように軍事予算を諸外国よりも充当させていたら、歴史は変わっていたかもしれません。逆を言うと、軍事予算を割いていない(割けない?)我が国本は、今後大丈夫なのか?
グローバル化と共に、自国ファーストを強める諸外国にあって、島国日本はどう戦っていくのでしょうか。当時ヨーロッパから見られていた戦国時代明けの強き日本と、今現在は大きく異なっている状況の中で、現在の自国を心配してしまいますが、いずれにしてもオランダからイギリスに覇権は移っていきます。
【まとめ】
「大航海時代のマネー~ネーデルランドの発展」の時代を、マネー経済という視点で見ると・・・
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ヨーロッパ唯一の自由取引国による経済交流=実体経済の中心地になった
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アムステルダム銀行、そしてオランダ東インド会社によって、ヨーロッパ中のマネーが流れ込む仕組み(金融経済)をユダヤ人たちが作り上げた。
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軍事防衛費に国家予算を割かなかった為に、イングランドとの戦いに敗れ一時代を終えていく。